いろいろな角度から自立を促されている

こんにちは。Miyoです。八ヶ岳西麓・長野県原村は、朝は3度の日もあり、一氣に晩秋の雰囲氣となってきました。

朝、間に合わないーーーと走っていく次男の後ろ姿

 

先日、両親がお友だちからいただいたという唐箕を受け取りにいってきました。

かれこれ1年以上受け取りにいけておらず、大豆も手仕事で全部脱穀していたので、今年こそは足踏み脱穀機と唐箕の恩恵にあやかりたいということで、急遽岐阜の中津川の両親宅へ唐箕をとりにいくことに。

 

原村から往復5時間。パッと行ってパッと帰ってきました。

滞在時間2時間もなかったのに、わたしが来る時間に合わせてお昼ご飯作って待っていてくれた母。

さらに、晩御飯にそのまま食べればいいよって天ぷらを3種、ポテトサラダ、栗ご飯も作ってくれてました。おやつのパンも・・・

父は唐箕のほかに焚き付けの薪やら玉ねぎやらピーマンやら、たくさん積みこんでくれて両親のありがたさに泣けました・・・

父の畑をちらっと見せてもらいましたが

もみ殻燻炭を自作し、

刈り取った雑草で堆肥をつくってました。

サラリーマンで勤め上げたなんて信じられないくらい野菜づくりが上手なのです・・牡牛座だからだろうか。とかふと思ったり。

 

帰り道のSAでみた空はきれいだったな。

 

柿もたくさんいただいてきた。

今年はたくさん実ってくれて、一日にこれだけとれるみたい。すんごい豊か・・・・

 

さらに、帰り道、友だちからお花までいただいてしまった。

帰ってきて思ったのは、

たった1日で家にはたくさんの食べ物と、唐箕があり、たくさんの果物があり、お花まで飾れるようになったということ。

たった1日、動いたらこんな風に豊かになるなんて、なんて素敵な世界なんだろう。

すごいことだよなと。

 

そして、今、世界情勢が揺れ動いていく中で、本当の意味での自立を確認することが起こっているように思うのです。

 

それは、表面的にお金が稼げるとか、仕事ができるとか、そういうのも含まれることはありますが

 

自立=全部自分できる

 

とは違うのだと思うのです。

 

もっと深い意味で

 

本当に、自分の足で立っているか

本当に、自分でかんがえて決めているか

本当に、自分の世界にむかっている行動なのか

 

さまざまな角度から、自立を促しているように思うのです。

 

そこに関係することが、それぞれにあった方法でやってきている。

 

わたしの場合は、妖精茶会・その後で書いたように、「やたらと余白ができる」ことによって確認を促されているように。

 

わたしの場合は、放っておくとつい、誰かのために仕事しちゃうし、予定いれようとしちゃうし、自分で仕事つくっちゃうんだけど

 

今回は不思議とそっちにいかなくて

 

おいしいものたべて

会いたい人にあって

行きたいところに行く

 

ただただ、それだけを積み重ねています。

 

そういえば、先日参加させてもらったコミュニティコンサート。オカリナ吹くのも楽しかった。

 

今は、焦ってはいけない。

今までのパターンにはまりそうになったら、一度立ち止まって違和感に耳を傾けてみる。

些細に見えること、小さく見えることに注目してみる。

答えをすぐ出そうとしない。

 

そんなことが、とっても大切に思うのです。