ポジティブ教と評価(ジャッジ)を嫌うゆるふわスピリチュアル
おはようございます。八ヶ岳西麓・長野県原村は、うっすらと雪が積もっていて、雪予報もでていて、いよいよソリができるかも!!と、ソリの季節にやっぱりウキウキしています笑
40代後半になって、まだソリにわくわくできる自分を褒めてあげたい
さて、昨日も素敵なお客様をお迎えして、米粉のタルトタタンなんぞを作って、うれしい時間を過ごしたのですが、
最近ずっとつくってるやつ。ふふ。
相変わらず ポジティブでなければ とか、「みんな一つだから評価=ジャッジ しない」みたいな感じってまだまだあるんですねーと思ったのでした。
スピリチュアルを学ぼうとすると、一度ははまる ポジティブ教(とわたしは呼んでいる)
かくいうわたしも、はまりまくって、ちょっとでもネガティブな感じがでてくると
いけないいけない!波動がさがる!キャンセルキャンセル!!
ってやってました。
そういうことに対して思うことを8年前にも書いてましたね。
ここ数年で思うのは、ジャッジという言葉がすんごく嫌われていること。
特に怒りに対してはネガティブに反応されることが多いなと思います。
もちろんね、人をディスったり、意味もなく決めつけるのはあまり感心しませんけどね。
自分がどういう立場をとりたいのか、
どういうことに怒っているのか、
何に不快になるのか、
何にNOといいたいのか。
そういうのって、この地球を生きていくうえで、とっても大事なことだと思うのです。
もちろん、大きな大きなレベルでは、「みんなひとつ」なんですよね。
でも、それは、なんというかRPGの操作している側の話であって。
実際のRPGで、キャラクターの行動をちゃんと選択していないと、物語はすすまないじゃないですかね。
キャラである自分と
操作している自分を
混同してしまっては、ちゃんと世界を生きられない。そう思うのです。
ただまあ、その、NOというやり方だったり、感情への対応は、ちゃんと向き合っていく必要があると思いますけどね。うん。
感情的なモヤモヤを伴う選択、評価であれば、まずは感情の奥底をみつめていき、
冷静な判断をしていけばいいのだと。
そこは、ちゃんと「思考」を使うといいと思っているのです。
すべてはバランスだよなって思うのです。
風の時代だからこそ、飛ばされないように、自分をしっかり持って、自分の足でたって、
世界を楽しんでいきたいなと。
そんなことを思った朝でした。
今日も、素敵な一日を♪
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