心の奥底の違和感を認める勇氣。

おはようございます。昨日は久しぶりに尾白川渓谷へ行ってアーシング!してきたMiyoです。

くはー、癒されますね・・・

 

もうすっかり過去のこと?みたいになっている原発事故問題ですが、全然収束していませんね。

 

直感だけで原村へ移住を決めたわたしですが、震災後すぐに移住!というモードにはならなかったのです。

なぜなら住み慣れた東京が大好きだったから。タワーマンションに住んでいる自分に満足していたから。

 

震災後からラジオをずっと聴いていて、たった1回だけ「メルトダウン」という言葉を逃さなかったオット。

その後すぐに西へ行くぞ!となって持てるものだけ持って、とにかく中央道を走り、甲府のホテルを駅で手配して滞在しました。

茨城、東京に住んでいるお互いの両親には何も言えず(特にわたしの両親は茨城県だったので、高速道路もとまり、流通も止まっていた)不安と罪悪感で押しつぶされそうになりながらなんとか必死で平常心を保っていました。

そのときのわたし。笑顔がひきつっています(笑)長男不安そう・・

 

その後東京へ戻った後の生活も本当に息苦しくて。

水道からでる水は使わない。雨が降ったら速攻で家に帰り、シャワー。

当時、西からの葉物はやっぱり高くてほうれん草1束300円以上ということも。

わたしは「そこまでしなくても」と思っていましたが、ここはオットが本当に厳しくて、渋々従っていたのでした。
葛藤のようすは、過去のブログにも何度も書いていますねー

2011年3月のブログ 分離といえば

2011年11月のブログ 正直な気持ち

 

いやぁ、なんだか必死で自分の感覚と葛藤と向き合っていますね。本当にあの頃は苦しかった。

なんでこんなに苦しかったというと、彼の言っていることは、正しいと心の底で思っていたから。

でも、わたしはそれを認めたくなくて、現状の深刻さを認めたくなくて、

「わたしの感覚はそうじゃないんだよなー」とふわっとした言い訳をして見ないようにしていたんですね。

 

でも、今は移住を主張し、嫌がるわたしを押し切っていろんな対応を主張したオットに心から感謝しているのです。

 

時間はかかったけど、わたしもやっと消化できた。行動しようと思えたのが移住を決めた2年後だったわけです。
というわけで、心の奥のほうで「やばいかも」ときこえてくる声を認めるって本当に勇氣がいることだし、変えるのも声に出すのも面倒なことはよくわかるのです。

ただ、そういう違和感を認めて、外に出していく仲間が周りにいれば、実はかなり早い段階で楽になるだろうなと思います。

 

わたしは今、本当にありがたいことにオット以外にもこういう話をどんどんできる友だちがたくさんできました。

 

べったりな関係ではないけれど、違和感やもやっとしたことはなんだかんだアウトプットできるのです。

 

このすぐにできる感じ、本当に大切で、わたしも友だちのそういうことは積極的に受け取るようにしています。

 

暗黙的に、お互い聴いて、受け入れて、ジャッジしなくて、思ったことを素直に伝える。その距離感が本当に心地よいです。

そう。だから違和感を受け入れる。ささやかな声を聞き取るって本当に大切なんです。

 

 

というわけで・・・

違和感に対して声をあげつづけた山本太郎さんを追ったドキュメンタリー映画。是非一緒にみませんか?

 

日本の原発事故を追っていた海外の監督が山本太郎さんの活動に注目し、日本の行く末を案じてつくられたドキュメンタリーです。

海外監督の目に、日本はどううつっているのでしょうか。

わたしの大好きな友だちと一緒に企画しています。

いろんな方に来ていただけるよう、2回上映にしました。是非大切な方といらしてくださいね。

☆10月5日☆市民の声をあげるヒント「Beyond The Waves」八ヶ岳自主上映会