あれから5年

2019年2月11日

毎日、こうやって健康で衣食住の心配もなく、しあわせに暮らせていること自体が奇跡ではありますが、

5年前の今日こそ、小さな奇跡の積み重ねで生かされていることを痛感した日はありませんでした。

 

 

あの日、まだ東京の高層マンションで夫、長男と3人で暮らしていたわたしは、

長男を保育園に預け、午後から立川で全身マッサージの講習を受けることになっていました。

 

初めて訪れる立川の住宅街。

普段であれば迷わず電車で行くことを選択するのですが(しかも金曜日のゴトウビまわり。)、

どうしてもなんだか氣が進まずに、ぎりぎりまで悩み、車で行くことを選択します。

 

さらに、そこは地盤がよかったせいかあまり揺れず、15時前に「あ、地震だね・・・大きいね・・・」と

その場にいた友人達と話しながらまさかこんなに大きな地震だったということはすぐには氣がつきませんでした。

 

帰りの車からみえる、バス停の大行列や反対車線の大渋滞といった風景とラジオから流れてくる情報で、

初めて「これは大変なことになった」と認識しました。

 

 

すいっと入ったガソリンスタンドで満タンにしたおかげでその後も助かりましたし、

保育園への道もほとんど渋滞にあたらず、ほぼ時間どおりに迎えに行くことができました。

 

 

長男とマンションにつくと、点検のためにエレベーターがとまっており、ロビーに人があふれかえっていました。

人混みの中、再開をまつか、28階まで非常階段でのぼるか。長男はまだ2歳でした。

 

長男にきいてみると、「うん、階段で行こう」と明るく答えがかえってきて、黙々と長男は登り始めました。

自作の歌を歌いながら、一度も「抱っこ」ということもなく、明るく登る後ろ姿は、疲れ切ったわたしには本当にありがたく、神々しささえ感じたのでした。

 

家の中も、奇跡的に観葉植物が一つ倒れているだけで、食器もすべて無事。

夫も帰宅難民にならず、その日のうちに歩いて帰宅しました。

 

 

翌日は、原発の事故のことでずっとぴりぴりしていた夫の指示に従ってとにかく西へ、とあてもなく車を走らせました。

茨城や東京に住む両親に、何も言わずに逃げるのは心苦しく、「これからどうなるんだろう」と不安でいっぱいだったことは今でも忘れません。

 

 

東京に戻ってきてからも、しばらく換気扇は停止。

雨の日は外出しない。マスクは必ずする、水はすべて蒸留器で作った水を使用、など神経を使う日々が続きました。

 

 

あれから5年。

わたしたちは、移住して以前よりも氣持ちも楽に、生活することができていますが、福島の事故は全く収束していません。

 

そんな中で他の原発の再稼働が進められたり、がれきの処理が全国で行われたり、まるで日本全国総被爆を推進するような動きばかりが目につきます。

甲状腺の異常が隠しきれなくなってきている福島では「風土病」のような扱いで、過去の公害病と同じような扱いがされようとしています。
仕方ない

 

わからないから

 

少なくともわからないのであれば、わたしは子ども達を守る選択をしないとと思っています。

 

あれだけ氣をつけていましたが、昨年行った次男の尿検査ではセシウムが検出されました。

検出された量がどのくらいの意味を持つのかまだわからないですし、継続して経過をみていかなければと思っています。

 

少なくとも、何も収束していない。

それだけは、忘れずに日々の生活でできることをしながら、やっぱり丁寧に生きていきたいと思います。

 

☆写真は、5年前の今日、唯一撮った写真。非常階段を28階まで登り切った長男(2歳11ヶ月)。

この日のことがあったので、多少マイペースでもなんでも、たいていの事に対しては、彼への尊敬の思いがまさるのです。

 

20110311