制限の中で生きることと選択肢とはなんだったのかを考えた夏

こんにちは。Miyoです。

先日、長男が高校の部活でライブをやるということで行ってきました。

ライブハウスに足を運ぶ人生が待っているなんて、人生って本当に面白い。

 

ドラムを始めて3カ月弱。ダンスも卓球も基本的にあまり自分から練習をしなかった彼にしては珍しく

自分で会場を予約して一人で練習をしてきたり、がんばっている様子です。

がんばりたいと思えるものがあってよかったなー。

それでも、毎朝、毎日ひたすら練習していたわたしの高校時代を思い返すと

のんびりしてるなーっていう感想なんですけど

 

聴いたのは文化祭以来で2回目でしたが、楽しみなみなさんだなーと。長男を含めて。

 

彼らやほかの高校生バンドの演奏を聴きながら、自分の学生時代を思い返していました。

いや、小さいころからですね・・・

 

モノゴコロついたときからピアノをやらされていて(やらされていて、の印象が強い。やっぱり)

かなり厳しい先生で、音感からソルフェージュ、徹底的にたたきこまれて、

それでも3歳下の弟のほうが才能があるって母も先生ももてはやしているピアノ生活

わたしは、本番だけ強いねーって褒められた記憶しかない(笑)

 

そこそこ弾けるようになったものの、ショパンの1曲か2曲を弾いている時以外は全然楽しいと思えなくて、

さらにずっと、結局弟のほうが才能あるんだよなっていうことでどこか閉じていて

ピアノは中2の時にやめてしまいました。

 

以前、数秘のセッションをノボさんにしてもらったとき、

あなたはピアノを使って癒すこともできる才能持ってますよ、ピアノ、やってませんか?

って言われたんだけど

 

そんなこと言われてもなぁ・・・

と答えるしかなくて、ノボさんからは先生との巡り合わせが悪かったねぇ・・というコメントを頂いたっけ。

 

こんな感じで音楽をスタートしたもんだから、

中学から始めたクラリネットも、楽しむというよりは、ファーストパートをとりたいがための練習とか

とにかく上手だねって言われたいための練習になってしまっていて

楽しいというよりは、なんでこの音色がでないんだろうな、っていうダメだしばかりでしたね。

 

移住後、40過ぎて始めたオカリナはようやく、そういうキモチを解放させてくれるツールとして

善き距離感で付き合えています。うまくなりたいキモチはあるけど、

そこはあえて、踏み込まずにいます。自分の楽しいキモチを保つために。

 

音楽に関しては楽しんで何かやるっていう感覚を小さいころから封印してきたかもしれないなと

そういうことを、ようやく高校生バンドを見させてもらって確信したのでした。

 

 

あの頃は、わたしだけでなく、たぶん、同じような世代として

選択肢が限られている(かのようにみえる)時代で

レールが何本しか示されていなかったんじゃないかな。

 

もっというと、その前の時代だってそうですよね。

 

制限の中で、磨いてきたものは底上げされるから全体のレベルは上がるかもしれない。

そういう楽しみ方もたぶんある。

今、器用にいろいろできるのも、特性もあるけど幼少期にピアノ、書道、水泳・・とやらせてもらったおかげもあるだろうし。

 

でも、長男みたいに誰に教わったわけでもなく、Youtubeみながら自分で勉強して演奏しているドラムも

ちゃんと聴けるレベルになるんだよな。

 

どちらがいいなんて言えないんだけど

久しぶりに、歌手になってみたいなとか、ステージにたって歌ってみたいなとか

そういう純粋にキラキラしたものにあこがれていた小さなころの自分をみられて何かを解放させてあげる段階にきたなと思ったのでした。

 

ずーっと頭の片隅に受験というプレッシャーがあった高校生活。

往復4時間かけて通学してたから体力考えて体育会の部活は断念した高校生活。

自分の立ち位置もよくわからなくて、なんとなく楽しんでいることを納得させていた高校生活。

 

もっと思いきり、楽しみたかったな。

思いきり、やったこと、人生でなんだっけ。あ、仕事か・・笑

 

 

後悔はしていないけど

違う人生をみてみたい氣もする。

まあでも、今世ではなかったんだろうなと。

 

そんな、言葉にしてしまうとあまりにもただのチープな回想になってしまうけど

こんな感情を思い出させてくれた長男の存在には、やっぱり感謝なのでした。