いろいろと、分かれていく時。
ここのところ、久しぶりに感情が大きく揺さぶられることがたくさんありました。
わたしの場合、行動の癖で、そういうときはとてつもなく頭が動いて、たくさん仕事を自分の周りにまとうことで、感情の波を隠そうとするのですね。
今回も、案の定、たくさんのやることに囲まれて、なんとなくモヤモヤを抱えながら過ごしていたところ、
ついにカラダが悲鳴をあげ、右肩下が氣持ち悪く、痛く、どうにもこうにもならなくなりました。
信頼していた方の態度が、また、わたしのモヤモヤを引き出してくれました。
わたしは、今までの仕事柄、整合性をとったり、相手の心情を読みながらシミュレーションして先回りした氣配りをしたりと想像力を働かせて、動くのが自然にできるわけなのです。というか、そう動いてしまうのです。(ヒューマンデザインでも、そこらへんがくっきりとでている)
なので、細かいちょっとした態度や言葉にとても敏感に反応して、ざざざっと状況を判断したり分析したりするわけです。
それは、とても強力な能力でもあるわけですが、やっかいなものでもあり。
今回はやっかいな方向へ作用しました。
なんで、そんなこと言ってられるわけ
なんで、そんな態度をとって一言も謝らないでいられるのだろう
フツウ、そういうことを言うときはもっと早く言うよね
などなど・・・
まあ、小姑のごとくいろいろ「自分の中では常識」な枠にあてはめて、ジャッジの嵐になるわけです。
こういうときは、自分で客観的にみているとしても、感情が波立っていて、心穏やかではないのです。
でも、それは抑えるのではなく、受け止めて、昇華して。
こういう感情が波立っているときにとる行動は、ろくなことになりません。(ヒューマンデザインでもそこはでてる)
でも、ちょっと行動してしまって、ろくな結果になりませんでした(笑)
わかっていても、やってしまうものですね、いくつになっても・・・
それでも、いろんな人に助けてもらって、やっと穏やかになりました。
あらためて、わたしが今回から学んだことは、自分の細かさに縛られるのはあまり心地よくないなということ。
それに加えて・・・・
結局、どんなに言葉で良いことを言っている人でも、どんなに「ああ、この人はステキ」と思っていても、
行動が伴わなければ、それはわたしには響かないということ。
今回、わたしが困っている時に、行動してくれた人、言葉だけだったとわかった人。
はっきりと分かれたなーということがよくわかりました。
でも、だからといって、この先ずっと、その人がどうこうっていう「枠」を入れるのではなく、
今、この瞬間において、行動をとってくれた人がいるありがたさ。
そこにフォーカスをしようと思います。
いえ、言葉でも、思いを寄せてくれることだけでも、ありがたいんですけどね。
それはわかっているのですが。
行動してくれるって本当にありがたく、素晴らしいことですよね。
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