ありがとう、牛久のおうち
わたしは、幼少時は東京都の杉並区で育ちましたが、
高校に入学するタイミングで、両親が茨城県の牛久市というところに家を建てたことで
そこから高校、大学と都内まで通うことになりました。
往復2時間、いつも混んでいる常磐線で毎日通うのは本当に大変でしたが
母も毎日お弁当をつくり、送り迎えしてくれたおかげで通うことができました。
なので日中はほとんど家にいなかったし、土日もあまりいなかったので
どうしても愛着という意味では薄い、牛久の家。
それでもずっと狭い社宅に住んでいた環境から
シャワーもあって、自分のベッドがあるお部屋がある環境になったときは
心躍ったものでした。
そんな牛久の家も、両親が岐阜の母の生家に引っ越すことになり
売却することになりました。
築30年近くで駅からも遠く、条件的には「売れるのかな・・・」な家でしたが
母曰く、不思議と決めてからすぐに買い手がついたということでした。
30年近く経ってもかなりキレイに使っていたから、ということが理由だったようで。
母の毎日の努力のたまものですね。
さすがに引越しの手伝いはできなかったのですが、長距離運転はきついだろうということで、
わたしたち家族は運転手として先日、最後の引き渡しの日に牛久へ行ってきました。
311以降、放射能の関係もあって足を運ばなくなってしまった牛久の家。
こうやってみると、なんだか不思議な感じです。
亡き祖母が買ってくれたピアノ。本当は原村の家に・・・と思ったのですが手違いで入れられませんでした(涙)
いろんな意味で、両親を含めて転換期がきているなぁ・・と静かに感じながら
隣に父を乗せて、首都高、中央道を走らせたのでした。
あの時期は、受験の重たいプレッシャーのイメージが強すぎるのですが
こうやって今があるのも、あの環境を経たおかげ。ありがとう。ありがとう。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません