わたしの平和活動

2019年2月11日

8月のこの時期は、どうしても平和について考える。

ブログやFacebookなどで、いろんな投稿を目にするけど、わたしは一人一人が平和について想いを寄せることはとてもいいことだなって思う。

愛の反対は無関心だからね。

そして、先日のママさんデモや高校生デモなどからも感じたけれど、少しずつ「次のステップに進みたい」という空氣がきているように思う。

それは、破壊を伴うかもしれないし、そうでないかもしれない。
たくさんの変化が起るかもしれないし、わからないくらいかもしれない。

怖い氣持ちがないかといえば、うーん、ちょっとね、くらいだけど
わたしはどちらかというと、楽しみだったりする。

安定はあこがれるけど、変化がないところにいられないことは自分がよくわかってる。
唯一の真理があるとすれば、変化し続けるというところだろうとも思う。
そして、わたしなりに平和に対する行動を考えてみたのだけど、
やはり日常の行動に優るものはないんだよね。

そして、わたしのソレは、菜食という選択。

なぜ戦争がだめなのか、なぜ人を殺してはいけないのか。

それは、理屈で教えられるものではない。
本能で感じるものだ。そこが何より大事。

そこを脇に追いやって、こういう理由だから必要なんだ、これは仕方ないんだ、といういろんなものの積み重ねがおかしなことを起こしているように思うんだ。

肉食もおなじ。

わたしは、肉食全部を否定しているわけではない。
かつてのネイティブアメリカンにみられるような、バッファローに祈りを捧げ、心の底から感謝して、いただく。そういう状況下までいっしょくたにしたいわけではない。

わたしが、と殺場の見学で一番恐ろしかったのは、
いやがって暴れる牛たちを無表情に蹴飛ばし、麻酔ガンをあてるヒト達。
笑いながら次々と内臓を処理していくヒト達。
命を命と思わない、その場が本当に怖かった。

本能が「これは違う。狂っている」そう言っていた。

そして、あの環境のことはほとんどのヒトが知らず、(知ろうとせず)、パックに入った肉の塊を食べている。

これは大量虐殺と何が違うのだろう。

ここで、植物も生きているじゃないか、という意見があるかと思うのだけど、
牛を殺してくるのと、きゅうりをとってくるのと、同じだろうか。
わたしはまだ、本能が植物をいただくことに「NO」と言わないので、ありがたくいただいている。

自分で牛を殺して肉を取り出して、食べられるなら。
わたしは、その選択もアリと思う。

でも、そうでないなら。
それは、違うのではないか。

そして、それを生業にしている人が居るからその人達はどうするの?という意見もあるかもしれない。

では、武器を商品にして売っているヒト達の生計まで考える?

そういうことなんだろうと思う。

この世界は、いろんなものがごちゃ混ぜになっていて、それがたぶん、魅力なんだと思うけど、もう自分が氣を入れられない選択はしない。

 

子ども達に、平和を説くなら、命の大切さを伝えるなら、

肉食の矛盾を、わたしは説明できない。

 

これがわたしの平和活動。

 

つらつらと、書いてみました。
お付き合い、ありがとうございます。