分離といえば

2019年2月11日

自分がここ数日、「分離」して考えていたなーと思うのは、選択するときのこと。
東京に残るべきか
水道水を使うべきか
葉ものの野菜は買うべきか
今日、外にでていいのか
こんなに意識的に選択を迫られる状況は初めてだったので、いろいろ見えなくなっていた。
ましてや、常にその選択には「小さな息子に」それを「させてよいのか」という条件がついてくる。
そして、ことごとく私の感覚と主人の意見が違う。
こういう状況が続くと、私の感覚を信じていいよいのか、迷いが生じる。
他人がくだす判断が気になってくる。
この先、どうしたらいいんだろう、と未来を心配することになる。
で、ふと立ち止まって「いま」を見てみた。
自分の希望通り東京に残っている。
→田舎の岐阜への疎開話がでていたけれど、なんだかんだいろんなことがあって、まずは様子見、と主人も落ち着いた。
水には困っていない
→地震の直前になぜか蒸留水を作る機械を購入していた。放射性物質を異様に気にする主人も家で蒸留できることを知って落ち着く。息子の分のミネラルウォーターは必要な分だけその都度入手できている。
葉もの野菜は食べられている
→ちょうど岐阜から野菜が送られてきたり、主人を納得させられる野菜が手元にきてくれている。おかげでグリーンスムージーも続行中。
という感じで、はからずも自分のやりたい方向に物事が進んでいる。そして、なにより家族全員が無事に健康で生活を送ることができている。
そっか。
やっぱり、自分が創りだしているって本当なんだな。
私は選択するとき、また自分と他人を分離して、軸をはずすところだった。
そうではないんだ、と様々なかたちでメッセージをもらえた。
選択、状況は人それぞれ。どの選択もその人を中心になされているから、正しい、間違い、はないんだよね。
主人からみたら、それは主人の選択で、今に至ることになる。
どんどんとジグソーパズルのピースがみつかってきているようで嬉しい。